ロング・ショットの三名手、かも

    • 上三つはさながらロングショットの三名手といったところか。シャマランがおくれをとっているけれど。

『ヴィレッジ』・・・会話シーンにおいては切り返しのショットで繋ぐのが主流のアメリカ映画にあって、ホアキン・フェニックスブライス・ダラス・ハワードのポーチでの会話における、カメラを固定してのロングテイクですべて収めるという姿勢には感心した。 「スカートの翻り」と言えば感じが悪いが、これがとても効果的に演出されている。最初にスカートが翻ったのはハワードの姉ジュディ・グリアー。父に恋を打ち明ける際のそれには充分に熱い恋心が宿っていたが、怪物が村にやって来て、妹のハワードがホアキンに手をとられ屋内に逃れる際の翻りは姉以上のものであり、この時点においてヒロインの座は妹ハワードに譲られた。「スカートの翻りが女をヒロインにする」と定式化してもいいのかも。 「宇宙人の仕業だと予想してたらやっぱり宇宙人だった」、しかもぶっきらぼうにそこに存在している、という何のひねりもない前作『サイン』の素直さというか観客を裏切らない誠実さが本作においてより深化されている。『シックス・センス』<『アンブレイカブル』<『サイン』<『ヴィレッジ』であり、あの誠実さはキアロスタミにもないわけで、シャマランはこれからのアメリカ映画を代表する貴重な作家だ。

珈琲時光・・・浅野忠信が、収集している電車の音をただの一度も聴かせなかったという点が決定的に重要だと思う。発声することではなく、音もその間隙も沈黙も、すべてマイクで吸収すること。吸収することによって彼は電車への愛を満たす。ラストショットの一つ前、一青窈は一言もしゃべらずに浅野の周囲をぶらついている。終始口を動かしてきた異邦人一青窈が、間隙と沈黙を知った瞬間であると同時に、浅野が発声を避けられた瞬間。泣いてしまった。

オリーブの林をぬけて・・・『友だちのうちはどこ?』『そして人生はつづく』の続きというか裏物語。『そして人生はつづく』がフィクションであることは周知のうえだが、いくぶんかはドキュメンタリーめいて受け入れられた状況を、自ら嬉々として暴いているような映画。出演者の失敗のせいでひたすら繰り返される撮影(映画内映画)を我々観客はうんざりして眺めることになるのだけれど、同様にフィクションであるまさにこの『オリーブの林をぬけて』という103分の作品に感動してしまうというからくり。キアロスタミは前衛的なことを平然とこなす。

スモール・ソルジャーズ・・・異形の具現化はもっと大胆にやっていいと思う。キルスティン・ダンスト美人。