映画製作を題材とした映画など

ライフ・アクアティック』・・初日やむなく最前列で期待に胸躍っていた見た前回よりも落ち着いていたためか、フィクション(虚構)を放棄されないままのフィクションとして受けとめた。むしろ、放棄すれすれの淵にいてなお、映画というフィクションに厚く寄せている信頼に、少なからぬ敬意と賛嘆の念を抱かざるを得なかった。ウェス・アンダーソンは、映画史上最もスクリーンの四方と平行(垂直)な構図を人物の背景にそなえる映画作家である。四角いスクリーンのさらに内側の四角で人物を頻繁に囲う。その帰結は、人物の類型化であり、フィクションに必須の条件だろう。政治性などに頼らずとも今日映画は存在しうるし、「表象」という足場の悪い言葉からはるか離れたところで、映画はタマネギのように視覚的な表層を強固に保存しながら固有に屹立し得る。
逆説的に別の種類の感動を誘うのは、フィクションの安全地帯に亀裂を入れてしまうようなシーンやショットの数々だ。(ネタバレする→)ジェフ・ゴールドブラムが銃で撃たれる(その後、腹を押さえて出血を抑えながら、銃撃戦のさなかあっけらかん棒立ちする彼にゴダールを想起する)ショットはまだやさしい方で、海賊が浅い霧の中からゆるりと現れるショットとか、ビル・マーレイオーウェン・ウィルソンが乗ったヘリコプターか墜落する際のショット群は、本来フィクションの安全地帯に亀裂を入れるという点で、自殺行為なはずなのだ。差異をつけて情感を高めると言えば分かりいいが、フィクションに埋没しきっている状況でこそ、その崩壊の危機を痛切に感じることが教訓的に示されているのではないだろうか。だから、主人公ビル・マーレイらのチームが映画制作を進行していているという設定も納得できるところ。
以上とは関係ないけれど、アンダーソン作品の中で本作で初めてオーウェン・ウィルソンが死ぬ。前三作(『アンソニーのハッピー・モーテル』、『天才マックスの世界』、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』)で共同脚本を努めた朋友ウィルソンを殺したという点には、十分注意を払うべきだと思う次第。



さよなら、さよならハリウッド』・・ドリーム・ワークスの製作で"Hollywood Ending"とは笑わせてくれる。劇中のアレンが監督した映画がアメリカでは不評なのにフランスで賞賛、というのは、フランスには見る目があるってことじゃあないと思う。フランス映画駄目だよしっかりしてよ、ってことでしょ。少なくとも自分はそう受け取っとこう。イラク攻撃に参加しなかったフランスへの賛同の意思の表れと考えることも出来るかもしれないが。




と、ここ一ヶ月で上記二本と『バッド・エデュケーション』合わせて三本の映画制作ないし製作を題材にした映画を見たのでした。