前者、加藤幹郎が『映画の論理』のなかで述べているように、前半の雨露に黒光る夜の都会のアスファルトと後半の陽光を反射する昼の雪原とのコントラストには驚嘆する。それもわずか82分の上映時間の中で起こるのだ。物語の導入のもとにフィルム・ノワールとして人は見始めているわけだが、コードはあっさりと解体されて光やら闇やらの境界は無に帰してしまう。なぜなら、明るい雪原に建つ、重要な舞台となる一軒の家の中は暗いし、だのに暖炉だけが明るく、ランプが灯されたと思えばすぐ消えしまい、ロバート・ライアンがライターをつけるとアイダ・ルピノが盲目だと判明するからだ。


後者を見るのは3度目(劇場で2回)。やはりこれは凄い。
見終わった後、ティム・ロビンスケビン・ベーコンの解説つきで再び見始める。冒頭のロビンスの「ミスティック・ピザ」は笑える。注文と違うピザですみませんみたいな。全体を通して、映画史とやらには役者を軸とした語られ方も不可欠だと思った次第。