悲しみは空の彼方に

imitation of life

女性映画、メロドラマ、フェミニズム映画、などと呼ばれる分類があるわけだが、サークの作品群の多くもそのどれかに当てはまるものなのだろう。ヒッチコック作品を代表に、男性が暗闇の中で女性を窃視できるものとして映画を捉える理論は、もっともだと言えるにしても、カビ臭いし、すこしげんなりさせられる。偶然に男性監督でありながら、サークは窃視としてのカメラは据えない。とは言っても女性の視点を採用しているからといって、本作をメロドラマと呼ぶことは安易だろう。そこには家父長制による抑圧はないし、善悪の明確な線引きもない。浮かび上がってくるのは、過剰なまでに慣習や男性の理屈を拒否した末に、娘や周囲の女性からも孤立してしまう一人の女性(ターナー)の卑俗さだ。カメラはおおよそターナーに同化することに成功していて、映画の前半、彼女に言い寄る男ジョン・ギャヴィン(スティーブ)が、男性的窃視映画におけるヒロイックさでもなく、メロドラマにおけるジェントルマンでもない、特異なグロテスクさを呈してやまない。

全編通して色彩設計への執着が見て取れるわけだが、一つ分かりやすいシークエンスを挙げるならば、ターナーがメイドのファニタ・ムーア(アニー)と死別するところ。わりと裕福ではあっても、一家庭の家の一部屋の、四方の壁の境目で色が異なるなんてことはないだろう。ところが、ターナーのショットの背景の色は彼女の服の色と同系の薄緑であり、ムーアのショットの背景は彼女が被っている布団と同系の薄グレーなのだ。また、ムーアが寝るベッドの頭の背後は茶色で、黒人の彼女の肌とマッチしている。要するに、ショットやシークェンスの時間的繋がり過程で、各々のそれの中でのヒエラルキーの最上位を占めるのは、そこの色に合う服を纏う者なのだ。この争いに参加しているのは、ターナーとその娘サンドラ・ディー(スージー)、ムーアとその娘スーザン・コーナー(サラ・ジェーン)の四人(男性であるギャヴィンは参戦できなかったようだ)。
赤とか黄とか、個々の色が観客の心理にどのような効果を与えるのかということは、よくわからん。今後の課題。

以上二点と、今は触れていないけれど人種の観点から見て、本作が非常に面白い映画であることは間違いなく、機会あらばサークの作品にもっと触れたい。同時に、系譜に前後連なるものとして、グリフィス、ニコラス・レイファスビンダーダニエル・シュミットペドロ・アルモドバルデヴィッド・リンチ、さらにはスティーブン・スピルバーグらの作品を見返したり見始めたりしたいと思う。