L'Image-mouvementについて

ロブ=グリエがいうように、描写が事物にとってかわったわけです。ところが、純粋な知覚と音声からなる状況に身を置くと、行動が崩壊し、したがって物語が崩壊するだけでなく、さらには知覚と感情の質も変化していく。知覚も感情も「古典的な」映画の感情=行動とは違うシステムに移行するからです。空間のタイプも従来どおりではありえなくなる。つまり空間は、運動回路とのつながりを失って、回路を切られ、内実を抜きとられた空間に変貌するのです。現代の映画は常識ではとても考えられないような空間をつくっていますが、それは感情=行動の記号が「視覚記号」と「音声記号」に席をあけわたしたからです。(ジル・ドゥルーズ,『記号と事件』,p.90,河出書房)

 『記号と事件』の「Ⅱ映画」の「『映像=運動』について」という章の中から。『映像=運動』とはいってもまだ邦訳は出ていない。英訳版のCinama 1. the movement-imageCinema 2. the time-imageは時間のあるときに読もうと思いつつ本棚に収まったまま。
 今日のハリウッド映画ながら『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』とか『ヴァン・ヘルシング』に在ると感じられた出来事の固有性は、派手な視覚記号や音声記号に移るきわまでいきつつ、空間の構成がしっかりしていたから得られたものなのだと確認した。
 出来事の固有性ってのは運動の固有性とほぼ同義だろうし、運動の固有性であるためにはまず事物がありのままである必要がある。ありのままの事物を支えているのが空間、ということになるだろう。やや単純な流れだけれども、当然「空間」っていうのは単にプロダクション・デザインの話じゃなく、フレームとか時間の切り口からもみていく必要ありだな。