表象と倒錯―エティエンヌ=ジュール・マレー

 一冊の書物に仕上げるために意図的に回りくどく冗長にしているという印象を受けた。あっさり読み終わる。
 映画が単に目に見えているものを再現するのみという論調でのマレーの映画批判は間違っていなかったけれども、映画自身その限界に気づいていたからこそ物語性へと必然的に向かったはず。しかしいまや物語が破綻している映画が溢れかえっているわけで、マレーの試みを振り返ってみることは意義のあることだと思う。単なる類似的な表象や言語的制作を超えた、相似としての「イメージ」の創出こそが映画にとっての命だと思った。無時間的な「イメージ」は、逆説的なことだけれども、ある一つの過去に属させなければ生まれてこないわけで、例えば今日見た『イン・ザ・ベッドルーム』においては、TVニュースの中継映像などよりも遥かに生々しいイメージを作り出している。浮遊ではなく、どこか固有の時間に属している表象(⇒イメージ)、というのは、ここのところ気になっている「出来事の固有性」というのにも密接につながっているようにも・・・。
 しかし時間の問題を簡単にやり過ごすわけにはいかないよな。