感覚=運動

映画は本来的に物語を語るものではない。感覚=運動の図式を対象に選ぶとき、物語を語り始めるだけなのです。感覚=運動の図式とは、つまりスクリーン上の人物が知覚し、感情を抱いてから反応をおこすという図式です。[...]主人公が何らかの状況にいて反応を起こす、そして主人公は常にしかるべき反応をするのだと思い込まない限り感覚=運動の図式は成り立たないのです。
ジル・ドゥルーズ,『記号と事件』)

 まあ映画が物語性へと向かったのは、運動の記録がたんに現実に見えている通りという批判を経ているというのもあるが、ひとたび物語性に突入したならば、その発展には上のような図式はかなり正確に当てはまるように思われる。第二次大戦を経て、反応や行動に延長されない状況に置かれたとき、イタリアでネオリアリズモが現れたという主張も納得できなくはない。
 運動に感情を見るという能力を人は得たのにも関わらず、運動の上からさらに感情を塗りたくるというような映画が出始めたのはいつ頃からだろうか。個人的には70年代の『カッコーの巣の上で』とか『プラトーン』とか、律儀に映画学校を卒業して作り始めたやつらの作品群が怪しいと思う。余計なお世話甚だしい、映像の衰退。それに比べたら、『トレインスポッティング』や『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』らの感情などないに等しい刹那性と即物性には、ずっと先見性があるように思える。