ロベール・ブレッソン没後5周年

vigo2004-12-20

 5年前、以下のような会話が交わされた。BSで放映された『スリ』の録画ビデオを貸したクラスの友人との間で。

  • 自分:ロベール・ブレッソン死んだよ。
  • 友人:誰?
  • 自分:『スリ』の監督。
  • 友人:あぁ、あれ、早送りして見たよ。

 というわけでブレッソンの死には強烈な思い出がつきまとう。この会話が交わされたときの友人の座席とか教室の雰囲気も焼きついてしまった。高校2年の時。
 ロベール・ブレッソン(Robert Bresson, 1901-99)が死んで5年経った。実は今日じゃない。12月下旬ということははっきりしていて、allcinemaONLINEに頼り22日と思っていたのだが、ついさっきIMDbを見たら18日。後者が正しい。22日は派手にブレッソン特集でもしようと考えていたのに、まったくげんなりする。まあ5周年に違いはない。元気をとりなおしてフィルモグラフィーを紹介。

 日本では見られない3、4作は早急にsubtitled in English のVHSでも手に入れて見よう。ブレッソンの作品を一言で表すなら・・、なんと言うか、無機的な物質と有機的な人間とのサスペンス。ミニマリズムが生む暴力。とでも。役者、ブレッソンが呼ぶところの「モデル」は、類型化を逃れた、人間の原型としての、物質としての肉体。奇跡的にその肉体には唯一の生が宿っている。まあ実際に見るのが一番。

 次はブレッソンの著作『シネマトグラフ覚書』(筑摩書房)から。

取るに足らぬ(意味を欠いた)映像の数々に専心すること。
雑音が音楽と化さねばならぬ。
感情が事件を導くべきだ。その逆ではなく。
観念に似た形式(フォルム)。それを真の観念みなすこと。
互い同士の内的な結合をあらかじめ見越している映像たち。
運動するものの光景は人を幸福にする―馬、運動選手、鳥。
或る芸術が人を強くうつのは、その純粋なフォルムにおいてである。
魚を得るために池を干上がらせること。
そのゆるやかさと静けさが映画館内のゆるやかさや静けさと混同されてしまうような映画は駄目な映画である。
「芸術映画」という内容空疎な観念。芸術映画というのは、芸術をもっとも欠いている代物のことだ。
何一つ変更を加えず、かつすべてが違ったものとなるように。

んー、ストイック。
 時代を超越しているブレッソンの作品が広まることを願おう。