ウェイクフィールド/ウェイクフィールドの妻

 ホーソーンの『ウェイクフィールド』(1835)とE・ベルディの『ウェイクフィールドの妻』(1999)の二作が収められた一冊。さしたる理由もなしにある日突然妻を残し家を飛び出したウェイクフィールドという男は、自宅の隣の通りに寝泊りし始め、20年後何事もなく自宅に戻る。というのがホーソーンのオリジナル。『の妻』は、置き去りにされた妻の視点で語られる。この二つの物語を持続させているのは(ホーソーンのは15ページしかないが)、「見る」ということだろう。オリジナルでは夫が妻を密かに見る。『の妻』では妻が夫を密かに見る。「見ることには愛がある」。20年ぶりの再会が、両方の作品において何事もなかったのは、見ることによってお互いの愛が保ち続けられたからだろう。また、オリジナルでは妻は見られていることを知らない。『の妻』では夫は見られていることを知らない。「見られることには憎悪がある」をその通り受け止めるならば、望まれる物語の結末(何事もない再会)に収束させるために、両作品において、見られていることの自覚がないのは当然ないわけだ。『の妻』に関しては、視覚文化批判のようなものが作者の意図になくとも感じ取れないこともない。20年の歳月がたった一日のように思われるという妻の心情描写(p.200)は、見ることは何もなしえなかったという諦念を読者に抱かせる。産業革命後の勢いづいたイギリスの任意の一市民ウェイクフィールド夫人が見ることによって消耗し、イギリス全体の消耗を暗示させる、という読みはムリだろうか。あらゆる物語は語りなおされ書かれる途上にあるという二人の著者の考え(たぶん)のもとに、それは許されるだろうし、見られていることを自覚した物語も待ち望まれている。

ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻

ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻