ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学

 切り返しやクローズアップなどともに構築された古典的ハリウッド映画の文法すなわち、物語の先導者となるカメラ=主体や、被写体=視線の対象といった関係は、観客の主人公への不問の信頼に拠っていたわけだが、『裏窓』はその関係を崩し、外見と内実の乖離を発生させ今日まで続いている現代映画の萌芽である。というのが本書の論旨。その前提として筆者は、『裏窓』では、ほんとうは殺人は起きていなかったことを立証する。一読したところでは、その論拠に反論することは難しいように思う。
 殺人が起きていたと意識的には受け入れた観客も、見終わって数時間数日した後は、作品のとらえどころのない浮遊感を感じてきたはずであり、感覚は正直とゆうか、まあほんとに「何も起こらなかった」出来事としてしかこの映画を記憶しえないだろう。それでも殺人があったと受け入れたのは、結局どちらでもいいからではないか。ジェームズ・スチュアートグレース・ケリーが手前勝手に殺人を想像して手前勝手に行動を起こしていたように、観客も映画館に入る前と出た後にそうであり続けるように(悪い意味でなく)、映画館の中のスクリーン上での出来事などどうであろうと他人事なのだ。もちろん現実の人間にはヒッチコックの映画内での人物ほどに過剰にしゃべったり行動したりはしない。観客は道程の途中でおいてけぼりをくらい、先導者への羨望と、先導者の危険を遠巻きに眺める快楽と、自分にその危険がないことの優越感とを抱いてヒッチコックを楽しむ。ただ、先導者は見かけどおりの中身ではない。そこらへんの、観客とテクストとの駆け引きが産み出されているのがヒッチコックか。

ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学 (理想の教室)

ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学 (理想の教室)