雑見・雑感

しかしそもそもカメラは映画誕生からこのときまで一度もドアなどくぐったことがないのである。


加藤幹郎 『鏡の迷路 映画分類学序説』 みすず書房 1993 p.56 /『フレンジー』(アルフレッド・ヒッチコック,1971)について

 以上6作を冒頭だったりある特定のシーンだったりそれぞれ二、三十分見る。
 『ドーン・オブ・ザ・デッド』(ザック・スナイダー,2004)のオープニングはこよなく愛している。上空から地上をそれとほぼ平行に映したロング・ショットのそっけなく乾いた世界観と、接近志向のゾンビと奴らが流す血の粘着性とのあいだの、遥かな距離感は見る人を爽快にする。粘着性といえば加藤幹郎がうえの本のなかで述べているように、『シャイニング』(スタンリー・キューブリック,1980)においてダニーがホテル内を三輪車で走行する様を、カメラが背後からほぼ等距離を保ったまま追うステディカム撮影で産み出される空気の粘着性は、恐怖映画によく似合う。『ドーン・オブ・ザ・デッド』においてはゾンビ侵略から逃れるサラ・ポーリーの運転する車にカメラが完全に固定されており、なんていうか、ここにも乾きと粘着性の共栄・競争がある。
 二作については共にオープニングでヘリコプターからの空撮がある。
 スティーブン・スピルバーグは自由だ。普段から長方形で視界を区切って生活している人なのか、フレーム境界も自由自在。脇役やエキストラは数のわりに均質・均等な範囲内で存在をわかちあっている。不気味である。それは『宇宙戦争』においては、トム・クルーズとその家族と以下人類といった描写になっているのか。ただやはり画面の高密度のためには、多数の「エキストラ=たんなる人間」が必要になってくる。
 うえの『フレンジー』についての引用は、昨日見た『やさしい女』(ロベール・ブレッソン,1969)と「ドア」という装置で繋がっている。(もちろんブレッソンはくぐらない。)大きさを持った機械カメラが境界をくぐるということ、技術的問題であり美術的課題であるこの運動についてこんにち革新的な達成を成し遂げたのは『パニック・ルーム』のデヴィッド・フィンチャーにおいてほかない。ひとが思っているよりもずっと大きな飛躍だと思う。